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2019年12月01日
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横浜の中心地『関内』の『関』は『関門』の『関』 ちょっと雑学・豆知識

日米修好通商条約(安政五カ国条約)によって、
1859(安政6)年に横浜に設置された開港場の区域を「関内」と呼んだことに由来し、
住所表示上の正式な地名として関内という地名はありません。

開港場にあたる関門(関所の様なもの)の内側(港側)が「関内」

馬車道、山下公園、横浜スタジアム、横浜中華街など今では観光地になっている、
当時外国人居留地があった場所になります。

※江戸幕府はアメリカに開港を要求され、
※当時「神奈川」の隣町であり、寒村であった「横浜村」
※(神奈川の横にある浜、横に伸びた浜)を神奈川の一部と称し、この地を開港した。
幕府は、東海道の宿場町であり、栄えていた「神奈川宿」に外国人を入れたくなかったそうです。

かつて関内周辺は海でした。

現在の大岡川と中村川に囲まれた一帯は入り江になっていて、
江戸時代にこの入り江は材木商の吉田勘兵衛により埋め立てられ、吉田新田として現在のような陸地となりました。
この埋め立て事業は何度も起こった大岡川の氾濫で困難を極めたそうです。

そして関門の外側が「関外」と呼ばれていました。

野毛・初黄・日ノ出・伊勢佐木・元町・石川町・寿・不老町・浦舟町・阪東橋と日枝神社の周辺になります。

この「関内」と「関外」を分ける境目は史跡とともに今も存在します。
それがイセザキモール関内駅側入り口にある「吉田橋」です。
当時開港場につながる関門は合計4ヶ所あり、吉田橋の他に谷戸橋、前田橋、西ノ橋の3つがありました。
ちなみに、橋脚のない鉄橋は、吉田橋が日本初です。
吉田橋はやはり1859年に「関内」と「関外」を結ぶ橋としてかけられ、ここに関門が設けられました。

さらに海側の現在の関内地区に相当する場所には横浜新田や太田屋新田が埋め立てにより造成されていきます。
そのためこれらの地区の道路は碁盤の目状に整備され、町名も古来からの物ではなく、埋め立てに関わった人物に因むもののほか、
埋め立てた当時の謡曲や百人一首から取られた綺麗な町名、縁起のいい町名(瑞祥地名)が多く付けられる事になりました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 居留地ものがたり

この記事を書いた人
藤田正広 フジタマサヒロ
藤田正広
2020年で不動産業界25年となります。当方の本拠地である桜木町・野毛エリアには美味しいお店がズラリと並んでおります。美味しいお店の情報はお任せ下さい♪と言いたい所ですが、このブログでは他のスタッフも皆食べ物系を書き込んでいるので、入る込む余地がない?!
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